2011年 04月 13日
日常と非日常の狭間に創造性が育まれる。 |
創造性は、いつ育まれるのでしょう?
・・・表現が悪いですね。
アイデアはどういうタイミングで頭に浮かぶのでしょうか?
最近、こればかりを考えています。
一つひっかかっているのは、「日常の中の非日常」
TRIZ的に言えば、「システムと構成要素での分離」的な思考。
例えば、京都にある哲学の道は、西田先生が思慮にふけるためにいつも歩いた道のことです。
脳は、一度に多くの情報を処理できないから、できるだけ外的刺激の少ないところで考えるのが良いという話です。
一方で、アイデアの出やすい場所は、昔から3Bと言われています。
風呂、車、ベッドの上。
つまり、リラックスや気分転換の中から生まれるということでしょうか。
結局、日常の中にある非日常をどのように作れるか、そしてそれらをどのように活用するかがポイントのように思えています。
日常の中の非日常。
日常とは、決して連続性のあるものではなく、ミクロレベルでの断絶の繰り返しだと。
そういう意味で、昨日があるから今日があるのではなく、ましてや今日があるから明日が存在するのではない。
それぞれは独立であり、かつ、つながっている。
「白頭を悲しむ翁(おきな)に代わりて」(劉廷芝)
洛陽城東桃李(とうり)の花
飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つ
洛陽の女児顔色を惜しむ
ゆくゆく落花に逢うて長く嘆息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開いてまた誰かある
巳(すで)に見る松柏(しょうはく)くだけて薪(たきぎ)となるを
更に聞く桑田変じて海となるを
古人また洛城の東に無し
今人還(かえ)って対す落花の風
年年歳歳花あい似たり
歳歳年年人同じからず
言を寄す全盛の紅顔子
憐れむべし半死の白頭の翁
この翁白頭真に憐れむべし
これ昔紅顔の美少年
・・・<後略>
日常があるからこそ、非日常が存在する。
そして、非日常だと感じていたことが、いつの間にか日常に変化する。
その時、自分は「成長」したとえいるのだろうか?
そんなことを考えている今日この頃です。
では、また。
・・・表現が悪いですね。
アイデアはどういうタイミングで頭に浮かぶのでしょうか?
最近、こればかりを考えています。
一つひっかかっているのは、「日常の中の非日常」
TRIZ的に言えば、「システムと構成要素での分離」的な思考。
例えば、京都にある哲学の道は、西田先生が思慮にふけるためにいつも歩いた道のことです。
脳は、一度に多くの情報を処理できないから、できるだけ外的刺激の少ないところで考えるのが良いという話です。
一方で、アイデアの出やすい場所は、昔から3Bと言われています。
風呂、車、ベッドの上。
つまり、リラックスや気分転換の中から生まれるということでしょうか。
結局、日常の中にある非日常をどのように作れるか、そしてそれらをどのように活用するかがポイントのように思えています。
日常の中の非日常。
日常とは、決して連続性のあるものではなく、ミクロレベルでの断絶の繰り返しだと。
そういう意味で、昨日があるから今日があるのではなく、ましてや今日があるから明日が存在するのではない。
それぞれは独立であり、かつ、つながっている。
「白頭を悲しむ翁(おきな)に代わりて」(劉廷芝)
洛陽城東桃李(とうり)の花
飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つ
洛陽の女児顔色を惜しむ
ゆくゆく落花に逢うて長く嘆息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開いてまた誰かある
巳(すで)に見る松柏(しょうはく)くだけて薪(たきぎ)となるを
更に聞く桑田変じて海となるを
古人また洛城の東に無し
今人還(かえ)って対す落花の風
年年歳歳花あい似たり
歳歳年年人同じからず
言を寄す全盛の紅顔子
憐れむべし半死の白頭の翁
この翁白頭真に憐れむべし
これ昔紅顔の美少年
・・・<後略>
日常があるからこそ、非日常が存在する。
そして、非日常だと感じていたことが、いつの間にか日常に変化する。
その時、自分は「成長」したとえいるのだろうか?
そんなことを考えている今日この頃です。
では、また。
by kuwahara_TRIZ
| 2011-04-13 21:36
| 徒然草